嘘をつく日がおわったので

昨日はエイプリルフール!!!

昨日はエイプリルフールでしたね!Twitterでは企業がネタツイートをしたり、アイコンを入れ替えたり、YouTubeではYouTuberのみなさんがこぞってネタ動画を作るなど、エイプリルフールの楽しみ方も色々と変わってきているなぁと感じる1日でした。しかし、インターネット上でのエイプリルフール意識に比べると、実生活上でのエイプリルフールは結構質素だったなぁと思いました。朝起きてLINEで嘘を送ってくるものもおらず、家族も特に何も嘘をつくことはなく、バイト先でも普段と変わらない日曜日の営業をしました。まあ僕に限った話かもしれないのでこの辺で。

今日は嘘についての記事を書いてみようかなと思う。

正直、嘘自体に大した興味はない。心理学者とかは嘘をつく心理について考え、表現者は嘘について賛否や持論を展開したりする。  嘘の話とは直接関係はないが、僕は何が正しいとか間違っているとかいうのは嫌いだし、そんなものに断言可能な答えなど存在し得ないと思っている。ものの正誤というのは一定の規則に従っているか否かを表しているだけに過ぎない。たとえば1+1=3という式が間違っているというのならばわかる。それは算数の世界において規則に従っていないからだ。だけど人の世の中、ましてや生物の生きる世界にこれといった規則は存在しない。これは別に法律とか宗教における思想を否定するという訳ではない。ただ、何者かによって作られた規則を守る価値というのはつまるところ、それが守るに値するかどうか、自分で判断するものであり、必ずしも従う必要はないことだと思う。僕は牢屋に閉じ込められるのは嫌だし、法律は守ることにするよ。

嘘の話に戻ろう、嘘においても嘘をつくことが良いことと言ったり悪いことだと言ったりする人がいる。僕も小学生の時親に嘘をついてそれが後でバレてこっぴどく叱られたあと、嘘はついてはいけないと教わったものだ。そんな小学生のころから随分と時が流れたが今僕がもっている嘘についての考え方はこうだ、「バレる嘘はつかない方が良い。決してバレないと確信できる場合を除いて嘘をつくのは得策とは言えないだろう」、と。

理由はいくつかあるがまず、バレない嘘をついてもいいと思う理由は、決してバレない嘘というのは真実と同じ価値をもつと思うからである。例えば、歴史の教科書に書かれている内容を皆はきっと覚えている限り、めったに疑わないだろう。自身で確かめようのない情報というのは嘘である確率があるにも関わらず、人はそれを基本として疑わないのだ。そして疑問を生じさせる何かが訪れない限り、人はそれを真実だと思うものだ。こうなってくるとバレる要素のない嘘はついてしまったところで事実上真実になると思う。  バレる嘘をつかない方がいいのは上記の理由の逆である。例えば、友人二人に対し、片方に真実、片方に嘘をいうとしよう。その場合その二人が情報を共有してしまった時点でどちらかないしは両方が嘘であるという疑いが二人のなかにはうまれるものだ。そして、二人は自分に真実は何かと尋ねるだろう。これでもし真実を教えてしまうなら、そもそも最初に嘘をつく意味はなくなってしまうものだと思う。